社長メッセージ

その使命感が明日をつくる。
その使命感が明日をつくる。

道を選ぼうとするとき、
決断の拠り所となるもの

大学時代は、実は3年生までほとんど何もやっていませんでした。一応サークルには入っていましたが、それほど情熱を持っていたわけではなくて、ほとんどバイトをやって、麻雀をやってという生活。(笑)4年生になってこれから就職だという時に、このまま大学を卒業して良いものかとやっと思い直し、自身の夢を掲げることにしました。せっかく法学部に入ったんだから司法試験を受けようと。それからの2年半は死ぬほど勉強しました。結果的には落ちましたが、受けずに卒業するより、受けてダメだった方が、大学に行った意味もあると自分の中では納得しています。

司法試験に落ちた後、改めて自身の夢を描きました。そうした時に、民間企業で働くのであれば、以前より興味があったマスコミ関係の仕事や、海外で仕事が出来る会社だなと。そして、調べていくと、これから海外に力を入れようとしている会社が当時の鉄鋼系の会社だったんです。海外の仕事を志望したのは、出身地の山口市に当時予備校や塾がなく、唯一近くにあった英語の塾で徹底的に勉強したので、自信があった英語力を活かしたいという考えからです。また、当時海外のプラントというのは人気があったので、自分も海外で大規模なプラントを手掛けたいと考え、結果的に日本鋼管に決めました。

私は“夢”というのは遠い将来ではなく、いま決断を迫られたときに、その決断の根拠となるものではないかと思うのです。自分は正しい道を選んだのだと納得できる、それが個人にとっての“夢”だと。そして、それが叶わなかった時には、新たな夢を掲げればいい。人生経験を通じて、そんなことを感じています。

転機となった「気づき」

海外事業に携わりたいと思って入社したものの、最初に配属されたのは清水の造船所の経理部でした。海外とは縁遠い仕事です。2年目の時、当時の上司がくすぶっていた私を、マレーシアのプロジェクトの応援に半年間出してくれました。そのプロジェクトは、海底の天然ガスを採掘して、パイプラインで陸上へ送り、最終的にLNGにして日本に届けるという非常に大規模なものでした。当時の先輩が清水から海外へ行っていたので、これで自分も同じ様に海外路線に乗ったな、と思ったわけです。しかし、それからはずっと国内で、本格的に海外事業に携わったのは、58歳、海外本部長に就いてからでした。(笑)

転機は32歳のときです。経理から営業へと職種が変わりました。東扇島のエネルギー基地は当時年間500万トンのLNGを輸入しており、首都圏の電力の約3割を担っていました。まさに日本の社会基盤を支える仕事に携わったのです。また、入社2年目に経験した、マレーシアからLNGを日本に送るプロジェクトがここで時間と場所を越えて繋がりました。当社が扱っているものがいかに社会の役に立ち、人々の暮らしを支えているか。私にとってこの“気づき”が大きな転機となりました。何のために働くのか、それは社会を支えるという使命感と充実感があるから。実感するまでに10年かかりましたが、それまでの道のりは決して無駄ではありませんでした。

変化を楽しみ、
無限の可能性を切り拓いてほしい

入社して35年。工場、経理、営業、企画、リサイクル、バイオマス、アクア、海外といろいろな経験をさせてもらいました。「変化を恐れず、未知の分野に挑戦することが財産になる」という信念が生まれたのも、そのためです。

社長に就いた今、これは会社としても明確にもつべき精神だと考えています。時代の潮流に応じて変容し続ける社会課題に対し、我々自身が常に変化し、挑戦し続けなければならない。多様な技術をもつエンジニアリング会社だからこそ、可能性は無限にあるのです。社員には、変化を捉えて柔軟に対応していくことを、楽しんでほしいと考えています。そのために、社員一人一人の使命感が今まさに社会を創っていること、一人一人の夢が次の社会を担っていくことを実感できる会社であり続けたい。社会貢献への夢を抱いた若き人材に、期待しています。


JFEエンジニアリング株式会社 代表取締役社長

大下 元HAJIME OSHITA

1957年9月11日生まれ。早稲田大学法学部卒業、1982年、日本鋼管入社。経理部、リサイクル本部企画部長、経営企画部企画室長、経理部長、常務執行役員、取締役専務執行役員、代表取締役専務執行役員などを経て、2017年3月代表取締役社長に就任。
趣味はマラソン。東京マラソンにも出場経験がある。


TOPへ戻る